汚辱に塗れた人々の生
「汚辱に塗れた人々の生」、「カイエ・デュ・シュマン」二十九号所収。一九七七年一月十五日、12-29ぺージ。<La vie des hommes infames>,les Cahiers du chemin,no29,15 janvier 1977,pp.12-29
『狂気の歴史』以来、一般施療院とバスチーユ監獄に残された収監古文書を発掘することはフーコーの常変わらぬ企画だった。フーコーはその計画に専心し数度にわたりそれを実行に移そうとする。この文章が序文を成すアンソロジーの計画は、一九七ハ年に『対比列伝』、'Les vies paralleles.''という叢書名で刊行され(ガリマール杜)、フーコーはその第一巻としてエルキュリーヌ・バルバンの遣書を出版し[1]、次いで、七九年には、国立図書館に残された暗号めいた文書に従ってジャン=ポール・デュモンとポール=ウーサン・デュモンが書き写し構成した『アンリ・ルグランの親密な集い』、'Le cercle amoureux d'Henri Legramd.''、が出された。しかしとりわけ、七九年、フーコーは、『十ハ世紀のパリにおける街路の人生』''Vivre dan la rue a Paris au XV。 siecle.''(coll archieves)を出版した歴史家アルレット・ファルジュがそのアンソロジーのために収集した文書を精査することを試みる。このファルジュとの共働で、王の封印状を巡る『家族の無秩序』''Le desoradre des familles.''が出版されることになる。
これは歴史書ではまったくない。以下に読まれるだろうテクストの選別は、私の好み、喜び、情念、笑い、驚き、或る種の恐怖、或いはそれ以外の何らかの感情、それを最初に見出した時が過ぎ去った今となっては、おそらくその強度が如何なるものであったのかを正当化することが私自身うまく出来なくなってしまっているそれらのもの以上に、重要な規則を持ってはいない。
これは生きられた生のアンソロジーである。数行、或いは数頁の人生、一掴みの言葉に要約された数知れない不幸や冒険、束の間の生、偶然書物や公文書に遭遇した人生。生の或る例証exampla、しかしそれらは------学者たちが読書の中で収集したものと異なり-------省察を促す教訓であるよりも、ほとんど一瞬にしてその力を失ってしまう瞬時の効果をそなえた例証群である。そのありようを素描するのに、私は《ヌーヴェル》という言葉でよしとすべきかもしれない、その言葉が指し示す二つの含みにおいてである。すなわち、語りの瞬時性、そしてそこに報告されている出来事の現実性。何故と言って、それらのテクストの中に語られているものの凝縮性はそうしたものであって、それらを貫いている強度が、それを語る言葉の閃光に由来するのか、或いはそこに圧縮されている真実の暴力性に由来するのか判断し難いのである。特異な生、如何なる偶然によってなのか私にも分からないままに、不思議な詩になりおおせた人生、それをここに、私は、一種の押花標本のようにして、集めてみたかったのである。この着想が私にやって来たのは、そう信じているのだが、或る日、国立図書館で十ハ世紀が始まったばかりの頃に作成された収監請願承認文書を読んでいた時だった。とりわけそれは、次の二つの略述文書を読んでいた時だったと思う。
「マチュラン・ミラン、一七〇七年ハ月三十一日シャラントン施療院収監-〈絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、夥しく訴訟を起こし、高利で金を貸しつけ資産を遣い果たし、その哀れな心を見知らぬ街路に彷徨わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む〉」。「ジャン・アントワーヌ・トゥザール、一七〇一年四月二十一日ビセートル癩狂院収監------〈棄教せるフランシスコ派修道僧、謀叛人、より大いなる罪科の可能性あり、男色者となり或いは出来得れば無神論者とも成り得んか------冒漬の怪物、この者を自由のままに放置せしよりも抹消せむことを厭うことなし〉」。
この断章を読んだ時、或いはこれらに似た断章を読んだその時に感じ取ったものが如何なるものだったのかを語るとなると、私は困惑せざるを得ない。おそらく、あたかもそれ以外にも印象が存在するかのように、《身体的なもの》と人が口にするような印象の一つ。そして、私を感動させたものは、何よりも、おそらく悲惨なものだった人物たちの周囲を数行の言葉で包むその古典的文体の美しさであり、或いは、石のように滑らかな言葉の下に感じ取れるこれらの生の剰余、暗い妄執と悪辣さの混成、敗北と執拗さであったと、いまでも言うことができはしないにしても[2]、それらの《ヌーヴェル》が、二百年の時と半ばの沈黙を超えて突如現れた時、普通に文学と呼びならわされているもの以上に私は心の琴線を揺さぶられたことを告白する。
ずいぶん前のこと、或る本のために、似たような古文書を利用したことがあった。そのとき私がそうしたのは、たぶん灰になった微細な生にこれらを打ち固めたいくつかの文章の中で出会う時に感じた震えの故であろう。分析の中にその古文書の緊迫した強度を再構成すること、これが当時、夢見たことだった。それを実現するのに必要な才能を欠いていたがために、私は長きにわたって一つの分析を反芻し続けることになった。それらの文書を無味乾燥な姿でとりあげること。それらの文書の存在理由を探究すること、如何なる制度、如何なる政治的実践をそれらが反映しているのかを探究すること。私たちのそのような社会において、背徳の修道士や気まぐれで無分別な高利貸しを(叫びを《押し殺し》、惑いは炎や動物を《消す》ように)《押し殺し消し去る》ことが何故突然それほどに重要なものとなったのかを捉えようとすること。私は、人がかくも熱心に、哀れな魂が見知らぬ街路を彷徨うことを阻止しようとしたのは如何なる理由によってかを探究した。そしてしかし、その仕事へと私を動機づけた最初の強度は、私の分析の外に置き去りになってしまったのである。それらの強度は分析的理由づけの領域にはまったく相応しくないという危険があったのだから、そしてまた、私のディスクールでは、しかるべくそれらの強度を支えることが出来なかったのだから、いっそこうした強度を、私にそれを感じさせた元の形のままにしておいたほうがましだったのではないのか?
そこからこの選文集のアイディアが、いささか時宜にめぐまれて生まれた。慎重に構成された、明確に確定された目的めいたものを構成された選文集。長い間私は、基礎的なものだけに留めた説明と、歴史的な最低限の意味づけを示すことが出来るようなやり方で、システマティックな整序に従ってそれを提示することを夢想していた。放棄の理由については後で述べよう。私は、極く単純に、それらが持つように思われた強度に従って幾つかのテクストを集めることにした。そこにいささかの前置きを置いた。そしてそれらを------私としては可能な限り悪しきに落ちないようにそれぞれの効果を保持するようなやり方で配列することにした。私の無能が私を、引用を巡るつつましいリリシズムに帰着させることになった訳である。
という訳で、この本は歴史家の仕事とはならないだろうし、なおさら他の者の仕事とはならないであろう。私の気質と純粋な主観性から出来た書物?私としてはむしろ------と言っても、結局のところ同じことを言っているのだろうが------、型どおりの書物、戯れの書物、自身のシステムを持つささやかな執着の書物であると言ってもよい。私は、先に挙げた気まぐれな高利貸しと男色のフランシスコ派修道士の詩が、至るところで、モデルの役目を果たしてくれたと思っている。それら一瞬の閃光にきらめいた実存、それらの生の詩のようなものを見出すために、私は幾つかの単純な規則を自身に課した。
------現実に存在した者たちにかかわる文書であること。
------それらの者たちは世に知られた者ではなく、厄災に塗れた者でなければならない。
------彼らを語る文は出来るだけ短いものが望ましく、数頁、或いは数行であればなおよい。それらの「物語(レシ)」は単に異例で悲壮な逸話であるばかりではなく、何らかのかたちで(と言うのも、ここで扱われるのは訴状、告発文、執行命令書或いは報告書であるからだが)、それらの実存の微細な歴史、その不幸、激怒、或いは不確定な狂気の一部をなすものであること。そして、これらの言葉と生の衝突が、今なお或る種の美しさと恐怖の混ざりあった効果を私たちに生じせしめること。
しかし恣意的に見えるかもしれないこれらの規則について、いま少し詳細に説明しなければなるまい。