「掟の門」〜超越論的とは別の仕方で


「掟の門」を近代性の生成の物語として読むのはたやすいであろうし、おそらく、多くの者がその誘惑に駆られるに違いない。しかし、ここではまず、この物語の磁力に抗し、突破するための準備として、あえて近代性の生成の物語としての「掟の門」を図式化しておくことにし、のちに私のポジションについて論じようと思う。

フーコーは、『言葉と物』の第九章で近代性の発端を<人間>とよばれる経験的=超越論的二重体がつくりだされた日として位置付けている。経験的な客体でありながらも、自らを認識しうる超越論的な主体としての<人間>。ハイデッガーの言う「みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者」としての「現存在」=<人間>。では、これらをキーワードにして「掟の門」を読んでいくことにしよう。

このテクストは、田舎から出てきた男が「掟の門」の門番に「入れてくれ」と懇願するところから始まる。しかし、門番は頑として男を入れようとしない。男は門番に贈り物をしたり、声を荒げても門番は男を門のなかに入れようとはしなかった。そして何年もの月日が経っていった。ここまでは、「掟の門」がまだ田舎から出てきた男の頭上に聳えているだけてあり、男はただ「掟」という超越的なものに従属しているに過ぎない。つまり、まだ「男」は<人間>ではないのだ。しかし、次の点において大きく転換を遂げる。

「死のまぎわに、これまでのあらゆることが凝縮して一つの問いとなった。」

その問いとは「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」これまで、男の視点は単に「掟の門」に入れない自分にしか向いていなかった。つまり、世界のなかにただ融け込んでいる存在者に過ぎなかったのだ。「私以外の誰か」、を認識すること。世界に融け込んでいながらも、「私」と「私」以外も認識することができるようになったのだ。そしてその問いを発すると、門番は「この門はお前だけのものだったのだ」と言う。「掟」がこの男のものとなったのである(門番が男と同一化したともいえる)。世界なかに溶け込みながらも、「掟」(=超越論的)によって世界/自分の存在の両方をを認識することができる<人間>になった。そして、ここにおいて近代性が生成するのだ。

しかし、その門は閉じようとしている。人間のもつ「掟」は終焉に近いのか?
あまりにできた物語である。私が上のような少々暴力的な図式化を行なってしまったのも、おそらく私自身がこの物語のフォーマットに囚われているからである。しかし、私はこのような物語を語ること自体に飽き飽きしている。ではどうすればいいのか?

最後の門番の「閉めるぞ」の言葉を多くの者は「終わりの言説」として受け止めるであろう。人間の「掟」の終焉。しかし、「門が閉まる」=終わりとあまりに短絡的に結び付けてしまってよいか?
しかし、私たちはこのテクストのなかの重要な部分を見落としてはいないか?

このテクストのなかで田舎から出てきた男が入ろうしているのは、あくまでも、「掟の門」である。テクストのなかで門番は中に入ると自分よりも強い番人が部屋ごとにいると言っている。どうやら、「掟」以上に厄介なものがありそうである。門の中に入ると掟とは別のものが立ちはだかっているのだ。そう、私たちは、超越論的な「掟」以外のものを求めなければならなくなっているのである。「門が閉まる」のは、まだ始まりにすぎないのである。

では、超越論的な「掟」以外のものとは一体何か?どのように振る舞うことをいうのか?そして、それはいかにしてなされるというのか?
まだ終わってもいなければ始まってもいないようである。


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