「掟の門」〜王様の位置をめぐるロマン主義
フーコーがベラスケスの絵画を題材に王様の位置とか中心の喪失を説いて久しい。それは、現代人にとって新たな芸術論の楽しさを教えてくれただけでなく、言説の快楽みたいモノを呼び覚ますきっかけであった。侍女と王女が着替えをしていてその奥に作者がいる。そのさらにおくに鏡があってそこから王様たちが覗いている。そして観賞を続ける我々はその王様の位置にいることに気付かされ、その位置は絵画からはみ出た外部として存在していることに注目する。そこは常に否定をくり返し、次々と主と客が入れ替わる場所であった。
王様の位置は、市民の位置としてまた近代から現代において消失したものとして我々に提示されたが、常に鏡は我々を映し出すということを前提としていた。それは、いつでも開かれた場所へのルートとして、あるいはアクティヴな自分の場所として。問題は「掟の門」の鏡と言うべき門は最後に「閉めるぞ。」という門番の言葉で終わってる点と閉められるであろうその結末を持つテクストにこれだけの開放感をどうして持つのかということである。
確かに、門は大人になることとか門番は主人公のドッペルゲンガーとかいうとしっくりくるがここはロマン主義的言説に飽き飽きした我々70年代キッズとして考えてみたい。現代思想の出発点の一つとしてロマン主義批判があった。だから、真理とか根源とかというタームはやたら嫌われた。しかし、それらを語ろうとするのにそれらを毛嫌いして語れるということ自体ロマン主義を内包していた。あるいは、やたら言葉遊びみたいになってそれ自体快楽になり結局何も言っていない系が多くあった。その点において哲学屋は議論するとき熱っぽくなるとすぐにロマン主義者呼ばわりされてその度に語る言語のがないとか言って上手く逃げてきた。それ自体ネタにされてきたから世話ないけど。
主人公はきわめて男根的にあり、門は女性的というその状況は結局、現代のアニメや様々なテクストと共通するモノである。しかし、そこで言葉や規律に限定を与えられる現代人をあざ笑うかのように門は閉じられようとしている。そうである、門は現代において閉じられている、という前提はかえって我々に言説を生み出す生気を与える。 困難な状況や限定性をもたらすモノに向き合ったその時、それらを取り除こうとする欲動は発動される。このテクストにおいてその発動者(読者)はその中で自然に運動やそれらを制限していた限定に出会う。それは、門が開かれていてそれは中心が喪失しててきわめて現代的で、それでいて外部なんだよとかいうモノではなく、分裂した男根的なモノは閉ざされようとしている門の前で危機的なんだけどなんか明るい気分にさせる新しい言表作業である。そこには絶望的に、どう使用もない我々は、限定を見つけ決定的に打破していく分裂した我々のドッペルゲンガーが立っている。まだまだ人間は波打ち際の砂粒のようにうち砕かれるのは早いのである。